話題になっているとかで書くわけではない事を先にいいます。
今、自分のこの表現できない気持ちを書き記したい。
三浦春馬さんの突然の死に対して、
あらゆる憶測が飛び交っている。
残された遺書について…(言葉をえらべない。どれもふさわしくない。)
自殺者の心意を語ることは本人しかできない。
なくなった以上、語られる事はなく。
各々が感じ取るしかない。
身近な人間が自殺する事は、
私個人の経験ですが、本人以上にまわりを苦しめます。
そう、事が終わった後で取り戻すことが
できない無力感です。
どうしてなんで、相談してくれなかったのだろうとか一方的な考えです。ちがうんですよね。
それに感じ取れなかった自体がだめだど人間を否定されたような、無力感が続きます。
1年が過ぎて2年が過ぎて少しずつ、嫌な事を忘れるかのように故人を忘れていきます。
でも、やはり思い返すと生きてる時代は良い思い出として語れるけど最後はやはりしんみりします。
私の話ですが、私には車の師匠といっていた人がいました。私が車に興味を持った20代前半に会社の先輩の友人でした。
いつしか、先輩なしで遊びいくこともあり、
車のイベントやカート練習などいきました。
よく、ジャスくんジャスくんといわれました。
彼は佐賀市内で仕事をしていました。
会社を辞め、北九州で仕事をしました。
私は彼女もできないろくでもない人間ですから、
暇なのでよく泊まりにいっていました。
そういえば、1台目のバイクはそのつながりで北九州で買ったんだった。
その後、師匠は、地元に戻りました。
地元に帰った師匠は彼女ほしいといっていたし、
仕事の上司が嫌だといっていました。
彼女に関しては、難航してたようでした。
おしレースクイーンがいたり。
謎のネットで知り合った人とあったりしてました。
当時は私はそこまで女性にうえてるわけでもなく、
合コンなどはしてませんでした。
なので女性関係につてはなく、
話だけ聞くような形でした。
また、仕事に関しては、
いやなら仕事をやめたほうがいいと強くいっていました。
当時は、全日本ジムカーナに師匠は熱中してて、
成績もよく、順調という感じでした。
当時は、私自身も余裕がなく、
病んだ後に、部署異動し、
なれないリーダー職でいっぱいいっぱいでした。
先輩も忙しく、みんな順調で構う必要があるとも感じていませんでした。
そこに、
先輩からの電話、
『やっちまったよ。〇〇自殺した。』という連絡しかも、葬式も事が事なだけに身内だけで行われ、
式にも参加できませんでした。
師匠は、母親と一緒に練炭自殺していました。
思い入れのある練習コースの峠道を超えたところで、その日は天気がよかったそうです。
師匠は、ははおもいでとても優しい人でした。
母親は、苦しむ我が子と共にという感じです。
その当時は、1番止めるべき人がとも思っていました。
葬式に参加できなかったので、
亡くなった場所で追悼をおこないました。
その日が雨だったら自殺してなかったかも、
私と先輩に少しでも余裕があったら自殺してなかったかも、
なかよければなかいいほど、
取り戻せない時間を悔やむばかりです。
残された人間の空虚感とは物凄いです。
出来ればニュースはほどほどに、
家族の事を思いやってほどほどに!
どうしてなんでの疑問は一生残る。
何もできなかった自分の無力を痛感する。
大事な人にだったのに。
ちょっと一緒にのんだらよかったかもしれないのに。あの時電話でておけば!かけておけば!
何をおもっても、残された人間は…
私自身も、今はそんな事はないですが、
30代前半は、死にたい願望はありました。
なんでしょうね。今詰めすぎて、人生を楽しめない人間でした。
仕事をやめ!退職金貯金もなくなり!
いけいけやーやーのなか。
居酒屋の知り合いができ。
嫁と付き合いはじめ結婚し、私は人生が楽しくなりました。
一人はやはりつらいものです。