JusticeBrain  ~jusys2-13bpowerの日記~

私の思考。感じたことを思いのままに。荒いですが効果てきな文章をどんどん出せるようがんばります。システムエンジニア SEの考え方!成長する手段を簡単に!リーダーマネージメントについての記事。また、人の言葉や、なんでも関数シリーズやおすすめドラマ 多岐にわたって私のすべてをさらけ出していければいいと思います。よかったら、アマゾンクリックして!いいものがあったら買っちゃおう! よくなかったら買うのはやめよう!

『システムエンジニア』転職記

今回はテーマ
『しごとの思い出』

お題で書くのは初めてですが一生懸命書こうと思います。
できれば、転職になやんでるかたや。
若手の方に読んでもらえればいいと思います。

では、転職サービス会社のテーマということで、
転職を軸に話をしてみよう。

私はシステムエンジニアを生業とし今天職だと思っています。
そう感じさせるのも良い転職をしたからです。

転職し4社目で
1社目と4社目は同じ業界でIT。

私の場合、一旦ITを捨てました。
捨てた理由はITが嫌いになったわけではない。
今思えばかなり私自身の頭が硬かった様に思う。

就職前に私がどういうタイプだったかということで子供の頃の話を少し。
私は子供の頃から明確な夢として『教師』でした。
漠然とした理由から始まった夢は大学受験で夢破れた後も社会になり転職するまでひきずっていました。

大学進学できなかったのも
勉強していなかったせいで、
先生になる為のプロセスをしりませんでした。
当時は、そのプロセスがあることすらわかっていませんでした。
周りにいくらでも実績者(先生)がいるなか、
どうしたら先生なれるかとか、先生はどいう仕事なのかなど聞くチャンスいくらでもありました。
イチローみたいに、プロセスが明確であれば道は変わったように思います。

私に先生になる方法を助言したのはただ一人高校の英語の先生でした。
センター試験で道がとざされた私に、センター試験の数学の点数といままで数学の成績から
数学選考の大学だったらいけるし、そこから先生になる道もあると明確に示された。
しかし、教師を学びたい欲求の私に対して教育学部以外の選択肢はありませんでした。

今思えばの教訓

『何が必要でその必要なものためには何が必要だとプロセスを分解する必要があった。』

『聞き入れる姿勢も必要だった』


そしてながされるみまま!
出来る事と興味があるのはコンピュータとゲームだけ
なので地元のコンピュータ専門学校にいこうとおもったら!
そんなとこいったら就職できんと親父の兄さんすなわちおじさんの神のひとこえで
福岡大手専門学校に行く事になりました。

漠然と進学を決めた私は、
まだシステムエンジニアという天職をしりませんでした。
なんの職業につくというのも把握してませんでした。
多くの人や学生は・・・

結局興味本意の実力だけで
成績上位でしたが
しかし、資格に合格できず。
基本情報技術者試験ってすでに情報が古くてシステムエンジニアに即効性は低いです。
なので当時は語卓に何の意味があるのっておもってました。
今ではその意義や資格の必要性を理解できますが当時は理解できなかったですよね。
受けろといわれたから受けた的なのりです。
就職の時、不合格が就職の選択で狭まったのも事実ですね。

理解して合格を目指している人はいましたね。
先生の話の意味や言葉をよく理解していたんですね。
その理解できているい人はとても優秀でシステムエンジニア向きの人でしたね。
プログラムがすきってという感じではありませんでしたが・・・
システムエンジニアってプログラムが組めればいいと思っていますが、
どういうものが作りたいのか理解する力が必要なんです。

プログラム力があっても、お客様とコミュニュケーションがとれてないことは多いです。
なんでも作れる人がいて、つくれるから作れる形でつくったものと、
作り方はわからないから、どのようなものを作ってほしいか話をして
理解してすりあわせして出来上がったものとでは大きな差がうまれることでしょう。

システムエンジニアってきめ細やかなコミュニュケーション力が武器」
 高い技術力があってもコミュニュケーション力がなければリーダは無理です。
 正直、システムエンジニアも無理かもしれません。
 奇跡的に、コミュニュケーションが細やかにできる人がリーダとなれば水を得た魚のようになるかもしれません。
 最低限のコミュニュケーション力は必須です。
 案外、自分がコミュニュケーション力がないと気づいていない人は多いですよ。
 私も、正直得意な方じゃないですが、リーダをやる場合はスイッチ切り替えますね。
 プログラマーモードの場合は、進捗効率重視なのであいさつもそこそこ、世間話もそこそこですね。
 世間話しても進捗上がりませんし、上がらないと存在意義ないですから。
 みんなにこにこでデスマーチは地獄ですよ。そのうちみんなギスギスでデスマーチになりますから。訴訟案件となりますよね。
 リーダーモードの場合は、おはようからみんなの顔色をみてだれとも話をして、
 自分の仕事よりメンバーの会話を優先してましたね。おのずと進捗はよかった。
 また、情報を仕入れているから右から左へと情報を流すだけでいいです。
 もしくは、コミュニュケーションが取れた人通しを橋わたしすればいいだけなのです。
 双方が仲良くなる環境をつくってあげれば、自分の手間もへりますしね。
 リーダーってエンジンオイルなんですよ!ようは潤滑油! 
 ガソリンと思っている人おおいですよね。ガソリンはよくもえますよ!
 すぐカッカきますねw すぐ泡のように気化しますね。w内容はご察しください。
 

物事には理由があるが、
そこを理解するまでには時間がかかる。
最初から物事を理解することばできない前提でとりあえずやってから理解することもあります。
システムエンジニアはそんなことの方がおおいです。
しかし、一つ一つをしっかり経験しておくという事は重要なことです。
何も考えず適当に済ませる事は、無です。
やるだけ無駄で、やり続けるといろんなものを失う事でしょう。

その都度なんで必要かなど理解してやるかで結果はかわりますね。


そして、一年がすぎ!さーもっと学ぶぞとおもった矢先、2年コースでは残り1年は
就職準備と勉強はありませんでした。
2年コースと3年コースとどちらがいいかとなんともいえませんが経験からいうと。

就職先も、やっぱ東京しょ
とインフォメーションデベロップメントを受けましたが、成績の低い人にまけました。

その時、先生にいいました!
何が、敗因だったのかと!
それは簿記にうかってないことでした。
日経3級はうかってましたが
日商3級におちてました。

その時はわかっていませんでしたが、
のちにリベンジし日商簿記3級と2級を独学で合格しました。
システムエンジニアって会社の本管の経営や売上や支払など勘定系のいわれる分野やどこかしことでてきます。
そのとき、3級レベルでも役に立ちますし、2級ともなれば工業簿記が入ってきてさらに役に立ちます。
普段は聞き慣れない売掛金や買掛金や手形など会社を運営してたらでてくるものは、
簿記ではあたり前に出てきますし使いこなせないと合格できないです。
システムエンジニアは技術側に目を向けがちですが、
いかに会社ごとに違う業務を理解し、簿記という標準ルールの理解は、
システムエンジニアの幅を広げるものだと思います。
ゆえに、私は負けました。

1社目は凄く大事


1社目って凄く大事だと思います。
ここで自分のベースが作られるとおもいます。
日本の企業では、1社目にとどまる事がベストという風潮はあります。
出世など望むのであれば、
慎重で積極的な人間関係を構築していくことが出世につながるとおもいます。
根回しや気遣いなど。やりやすい場所を構築できる企業であれば
よいですね。

いくら調べても自分にあった企業というのは難しいですね。

鶏頭牛尾
『大きな集団や組織の末端にいるより、小さくてもよいから長となって重んじられるほうがよいということ。』

大手に目が行きがちです。大きな企業では、出世しがたいように思います。それは人も多いし優秀な人も多い。
あまり前に行くのが得意じゃなく前に出なくない人ほど大手が合うかもしれませんね。
逆に、先頭にたって突き進みたいタイプには小さな企業の方があう場合もあるかと思います。
ただ、牛の頭になれる人が、鶏の頭になるのはもったいないことですね。

さてさて思いで話に戻ります。
よいか悪いか、先生のおすすめの企業を受験、
やったのは面接だけみたいな記憶に残っています。
就職氷河期といわれる時代ですが、
何の苦労もせず地場の地場のテレビ局とNECが資本の会社に就職しました。
最初はオペレーション聞かされ、3年でエンジニアと言われたけど
この当時の企業にはコンプライアンスがありませんでした。
求人票は嘘ばかりでした。

就職が決まり、
配属がきめるまでは、もしかしたらプログラマーかなとおもいましが、やはりオペレーションが仕事でした。
IBM 汎用機(通称 ビックブルー)やNECの汎用機操作する人となりました。

今、オペレータと聞くと電話対応の人というイメージがかとおもいますが、
汎用機のオペレータというものが存在していました、サーバー時代となり人件費も減り。
オペレータの部署は縮小されていますが・・・
自動で動くものがおおいので、警備みたいな仕事になっているかもしれませんね。
それとは違い当時のオペレータは、どのような仕事をしていたかというと、
ジョブというプログラムの塊をコンピュータに指示(専用コマンドを打つ。
IBMだと S READER JCL名 ライブラリ名 みたいな
ACOS だと RJ JCL名 ライブラリ名 みたいな
みたらわかりますが・・・

そして、当時は汎用機のハードディスクは数千万単位の価格をしていたので、
少ない容量で処理をするため、オープンリールという2センチみたいな幅のフィルムがぐるぐるまかれた
磁気テープというものを一晩50本ほど用意して、ジョブの来る順番にかけるというものでした。
自動化される前だったので、流し間違いをするとデータがこわれてしまうようなものでした。
オペレータは、緊張しながらもひとつ流す順番通り流します。
基本的には、フロー通りに流すのが基本なんです。

私がまねした先輩二人は、特に処理をするのが速い二人でした。
フロー通りに流すだけなのに処理を終わるのが速いとはどいうことかというと。
単純に無駄がなく、テープの要求は事前に把握しているので、先駆けというのですが、
テープの要求が来る前にマウントしておくと勝手に読み始めます。
その先駆けを全4台~6台の磁気装置を使用します。そこをフル稼働します。
ここで要求がきて、テープ選んでるかけるという時間がへります。数分程度ですが30回あれば30分ちがいますね。

流す全てのJCLをすべて把握して、更新するテープやデータを把握して
問題ないJOBSTEPまでくると先のJCLを流す方法がありました。
これにより、並行処理が可能となります。
次にジョブの優先度を使い、長引くものを優先度を下げ、長引かないものを優先度を上げます。

長引くものを優先度上げた方がいいと思いますよね。ちがうんですよ。
長引かないものがどんどん終わるので、結果的に単独で動く時間が増え長引くものが速く終わるんです。
これが優先度が変わらないとCPUをバランスよく配分されるので結果的に平行時間が長くなり遅くなります。
また、事前にハードディスクがオーバーフローを予測し、事前にハードディスク開けておきます。
これら総合的に行うことで、トラブルも少なく結果的に処理が速くおわります。
いつしかジョブステップを全て把握して、
遅いステップやはやくステップなど覚えていきます。
これがリカバリーの時強い武器になりましたね。
理解してると原因の場所の特定や
リカバリーがはやいですよ。

こういう

プログラム構造の全体理解や把握は

今でもやくにたってますね。

最初は時間かかりますが、
しっかり環境理解して組むので、
後々楽なんですよ。
同じ時間開発してたのに、
最終的に自分に質問がくるのはおおいですね。全てのソフトと環境を理解しているのは自分しかいなくなるですよ。

そこ端折った人は、そこしかわからないので後々役立たずなんですよ。

この世界いちはやく、
環境理解したものガチなんですよ。
そこに最短ですすむには!
最初時間かける必要ありますね。

話をもどしましょ

若い時にはこの3人で入ったときはすごく早く仕事終わってました。
阿吽の呼吸でしょうか!
目的が一致してるので、
お互いが無駄なく動くですよね。

通常は深夜4時か5時ぐらいに作業がおわるんですが、3時もしくは3時半にはすべての作業が終わっていました。
そこから何をするかって?自由です。
インターネットやったり。漫画本読むことがおおかったでしょうか。スマホなんてありませんよ。
夜勤は3人で行います。
16時~9時半の2日勤務という1回くるだけで2日分の勤務しかも夜勤手当が2日分つきます。
単純に10回くれば1か月の勤務となります。
22時~7時夜勤がありました。

2日勤務の夜勤者は、ジョブを流し終えると監視を残り二人に任せ寝ます。
寝るのは正直許されてないですがそこは連携プレイですね。もちつもたれつです。
残り二人の夜勤が帰るまで暇なのでフォローし、帰る直前に起こします。
これは速い人がなせるんですよね。

そこから寝てるので遊びいったり、
パチンコいったり!
金は夜勤だったので給料高かったので。

このころは、速くて正確なオペレーションを目指してましたね。
ただ私習ったことはないですよ。
常に、先輩たちの近くにいてみてましたね。
それぞれ先輩たちのオペレーションって微妙に違うですよ。
正確重視し慎重派!がおおかったですが、この二人は理由も理屈もわかっているので完璧でしたね。

今の子にはできないかもしれませんが、これが見て学ぶです。
なんで学ぶかって自分が楽したいからですよ!楽したいから自ら学ぶです。
若い時楽したって、年老いて苦労するばかりと考えてましたからね。

速く仕事を終わらせることに魅力を感じるようなりました。

でもこの当時、仕事に満足していることはありませんでした。
今思えば、いつから向上心が強い人間になったのかわかりませんが、
漠然とこんなことしてていて、将来は大丈夫だろうかという感覚がありました。
いくら速くオペレーションができても、満足感とは違うものでした。
あまり家にパソコンが無い時代にパソコンを買い、当時は深夜帯のみインターネット使い放題。
インターネットも企業のホームページなどはほとんどなく、ディープなものがおおいなか。
私もホームページをつくっていましたね。スキャナ購入して現像した社員をアップして。
そっちの方が自分らしいくはあったんでしょう。
でも一番自分に危機感を植え付けたのは、一人のやめていった先輩がいたからでした。
その先輩は、専門学校の先輩でつながりはなく、卒研の発表を私たち低学年が審査した際に、
その先輩は、たくさんのチームに参加し名前がたくさんのっていたので、
優秀な人だというイメージがありました。
その先輩と就職し、仕事中にいろいろ話をし仕事の現実などいろいろ話をしたからでしょうか。
私もかなり不安になったのは事実ですね。その先輩は、結果仕事にも身が入らず。
オペレーションミスが多かったです。そして、やめていきました。
企業したという話や、専門学校の講師になったなど、そのあとはわからないです。

不安がさせるのか、仕事中は生真面目に仕事していましたね。
スピードを意識し、不安を意識し率先して仕事していたら、
やはり他とは目立ったんでしょうね。
3年目か4年目に優秀社員賞を頂きました。
価値もわかっていない私は、そんなもんもらっても将来は変わらないと授賞式は欠席しました。
その後、部署の先輩チーフとして任期を終え。
気に入ってくれていたオペレーションの部署そのまま所属。

ここから数年は、だめな状態でしたね。
それこそやめって言った先輩と同じですよ。
ミスなし後輩指導で表彰された私が、ミスばかりでしたね。
理由は簡単です。仕事が面白くないです。
当時でも古かったCOBOLを学習し、オペレーターの延長。
仕事もないので、汎用機ルームに入り浸り。
机に戻ると上司と先輩SEはネットサーフィン。
ここにいたら自分はダメになるとばかり思ってましたね。

人って身がはいっていないとミスを起こすですね。
今思えば合わないというアラートだったんでしょうか。
運命的に、自社の汎用機の移行のプロジェクトに参加し、主要メンバーとなりました。
上司が飲み会後、因縁つけられぼこぼこになりプロジェクトが佳境のさなか、ほぼ自分だけでやりとけげることなりました。
二人分を一人でやらなくてはならくなった私は、
月曜日の9時出勤し深夜3時まで仕事。3時から6時まで会社でねる。
火曜日は6時~深夜3時まで仕事。3時から6時まで会社でねる。
水曜日は6時~18時まで仕事し帰る。
木曜日の9時出勤し深夜3時まで仕事。3時から6時まで会社でねる。
金曜日の9時出勤し深夜3時まで仕事。3時から6時まで会社でねる。
土曜日の9時出勤し18時まで仕事し帰る。
日曜日は休み。
これを数か月つづけましたね。 いやー当時はブラックでもなんでもなかったですよ。
誰に言われるわけでもなく責任感だけですね。今思えば不思議ですよ。

忍耐力ありましたね。

そして、将来も見えないままもくもくとプロジェクトを完了しました。
そして、また、暇になりました。
このころからでしょうか耳鳴りがしはじました。
ストレスが原因なんでしょうね。

この当時は、視野もせまく、行動も起こせない。
せまーーしやのなか、死にたい死にたいとおもってましたね。

今思い出しましたわすれてましたね。このころバイク事故起こしました。
時速80キロ走行中フルブレーキングされ、殺されかけました。
奇跡的にかすり傷だけしたね。
死にかけた経験から「死ぬ覚悟ならなんでもできるな」っておもったことと。
死ぬかもしれないなら、なんでやった方がいいなとかわりましたね。

いいましたよ上司に。
私の近くに学ぶべき人間はいない。
私はどうすればいいのかと!
泣きながら!
2週間休みましたね。
当時はまっていたオンラインゲームで廃人となりましたね。
そしてもどり、異動願いをだしました。

異動後、開発エンジニアとになりました。
700万→3000万→8000万とプロジェクト規模はおおきくなり。
不況のさなか、2億、3億のビックビジネスの見積もりをしていました。
部の代表のビジネスと取り上げられてましたが、やってるのは私だけでした。
他は、社員数名とプロジェクトがくまれるのですが、
若手をCOBOL分野にいれることはできないので、
常に私とパートナーだけで、誰に頼ることもできずやってましたね。

リーダーの仕事は、やったことなく手探りです。
一つの仕事を終え、悪かったところを改善し次にの繰り返しですね。
リーダになると、作業はなかなかできず。進捗とにらめっこです。
なんで進捗があがらない原因を分析し、ルール作りや展開用の資料作りを行いました。
ほぼ、メンバーの相談を聞く側の立場だったので、とことん話を聞きわからないながらも
あーかもしれない、こーかもしれないと時間ばかりつかってましたね。
非効率な時間でしたが、私には必要な時間でした。
いつしか、情報があつまり、相談されるとあの人が知ってるのできいてとか変わり。
自分で手に負えない判断は、上司を巧みにつかってアクションかけてましたね。
これって当たり前なんですが、できない人多いですよね。
そういうことが自然と身に付きました。それは考え考え考え考えていたからです。
メンバーの顔色を常に見て、元気ないねー、もう今日ははやくかえりなーーといって、
そっからが私の仕事開始です。
効率がわるいなーとおもってましたが、リーダーはこういう仕事の仕方がいいですよね。
一番仕事が回っていたときは、1日おわって俺話しただけじゃんとおもってました。
でも一日完了する進捗はすごく多かったですね。

リーダーの仕事は!話をきくだけですべての時間つかえ!

今でも正解かわからないし、プロジェクトマネージメントなんて正解はないですよ。
その都度メンバーもかわるし、仕事内容もかわる。その都度考える必要があるですよね。
メンバーにはよいと思われていたとは思いませんが、私なりにがむしゃらでしたね。

その当時私の進捗会議は、斬新なものでしたね。
進捗会議はします。
エンジニアというのは、会話を好む人は少ないです。だから言う機会を設ける必要があります。
「では、進捗会議を始めす。進捗の内容は進捗表で確認とれてますので、
 各自、問題ありなし、問題のないようのみ答えてください。
 問題ありますか?ありませんか?(間)!じゃおわります」がベースです。
 問題があると答えたら、内容を聞き、すぐに回答がでないものは私が受け止める。
 回答を知っているものがいたら、この人に会議の後に聞いてくださいと橋渡しをして終了。
 一回おもしろかったのが、そのまま開始1分ほどでおわろうとしたら、
 そいう状況になるとエンジニアっていうですよね。ちょっとまってください。問題あります。

私はそのとき、常々他のプロジェクト会議が1時間や2時間かかることに無駄としか感じてました。
1時間や2時間でおわらないのはなぜっておもってました。

私が会議をしなかったわけじゃないです。
都度、個別に椅子を集めプチ会議はたくさん行い、たくさん議論しましたね。

私はリーダー初心者でしたが、
メンバーを信頼し、頼り、頼られ!
好きじゃない飲みにケーションも率先して行うようにしましたね。大事だなーって。
毒を吐かせるには、自ら率先して毒を吐く必要がある。
リーダーがかっこわるかったら、みんなしっかりやってくれるもんですよ。
それでもまわるです。

リーダーとなり、社内にいることよりは、
マネージャや営業と行動することが多くなり、
会社の中より外にいることの方がおおくなりました。
接すする人は、社内とは違い、ビジネスの中で戦っています。
自分との差を見せつけられるばかりです。
危機感は、まし、ますます自分は自己研磨に努力します。
リーダをやりながら、ORALCE試験や情報処理試験を合格。
どこにそんな時間があるのって?
朝5、6時起きで勉強し、仕事して24時にはかえって勉強して、
今じゃできないですよ。


危機感をエネルギーに成長を目指しました。成果はでていました。
値切られまくった見積もりで、
利益10%でていました。
8000万で800万ほど。
他のプロジェクトは残業による残業。
私のプロジェクトは単体結合以降は定時ダッシュ。なんでそうできたか、
上流工程を軽んぜず。
上流工程でものすごく残業して
決めなくては行けない事を洗い出し。
プロジェクトは、前倒し前倒しですよ。

もう一つ私のプロジェクトの10分の1程度のプロジェクトが稼働してました。
私がアドバイザーになろうかといったか、
私は社員1人で8000万の仕事かかえていてので手を出すなと。
上流工程のさなか、我々残業、そちらは定時ダッシュ。大丈夫かな?といったら大丈夫大丈夫!

危険信号は察知しながらも、
課長には大丈夫すか?っと
大丈夫大丈夫。小さいからと

私達のプロジェクトは
1月に始まり5月が佳境で6月以降は、落ちつたものでした。7月ごろには社内の人員も使わなくてよくなってきてました。
想定よりはやく人員は開放。
私は引き続き客先が作業するということで毎週1回の定例を実施!

トラブル解決要員の二人は、客先検証が
進まないので問題がこない!
顧客はこまってる!スキル不足ですすまない。
通常は契約外で放置しますが、
そこは、課長と相談して、
二人あいてるし、現地投入しませかと!
契約外だからタブーですよ。
しかし、現地に投入したら回るようになり。結果必要と理解してもらい。
こちら側も現地で対応したほうがいいということで、二人のうち一人分だけお金をもらえることに!
出すことでプラスの売上となりました!

私は週に一度、現場の二人と会話して、
本音をききだし、

その後、客先の現場の人と会話!
率直解決策をもさく!
客先現場が言えないことを課長を通して、
先方の上長に伝えたいさくする。

リーダーは、聞いてつたえるだけが仕事なんだなておもいました。

私はなにもしていませんw

本番当時、この規模のリリースははじめて
朝から優秀なエンジニアとスタンバリましたが全く問題がでません。
何で動かしてるの?
動かしています!
何の問題もありません!

結果は何もありませんでして。

客先も驚いてましたね。
こんなにトラブルがないのははじめてだと!異例の大規模飲み会も実施されました。
NECが受注元でしたが
こんな会をやったのは過去にないといわれました。
社内のIT費用削減に大きく成功した役員の方は出世してましたね。

NEC営業からもこれからもよろしくとなりましたが、
うちの営業と課長がNECを気にするあまり、全く提案しませんでした。
結果築き上げた信頼関係もなくなってしまいました。

この後二度目の優秀社員賞をいただきました。大規模プロジェクトを成功させ!
国家試験やベンダー試験を次々合格!
会社の模範とかなんとか!
大丈夫まねできないから!

このころから
営業に不審をもってました。
なら、俺が営業になってやろうと!
そしたら売れるとおもってました。
大きな勘違いでした。

その後、営業に異動。
私とやっていた一回り年配の営業課長は
きみならやれるといってくれました。

出来る事は色々やりました。
東京へ行き、営業をなめてたんですね。
そして、部長から嫌われ。
毎日飲んだくれの日々ですよ。
東京に行き十万ほど給料あがりましたが、
貯金は増えなかったです。

後輩エンジニアや客先と自腹で飲むひびですね。2年目という身近営業人生にピリオドをうち。そして、1社目にピリオドをうちました。直属の課長も色々せわしてもらって、所属のシステム部長もかなり世話してくれました。でもたまりかね、伝家の宝刀だしましたね。

先も考えず!とりあえずここにいる事は良くない。当時耳鳴りはひどい状態にきてました。ギリギリまでやっていけるかわかりませんでした。
私の退職は、社内に悪影響ということで
速やかにすすめられ退職日まで知らされてない状態でした。

私というと、
やめるので嫌いな営業部長と縁をきりたかったので東京の縁切り神社でしっかり。
結果は、ばっさりきれましたね!

東京ではお世話になった
外の方に送別会開いていただき、
仕事先も紹介して頂きました。
○○くんなら大丈夫じゃないと、
悩んだ結果いきませんでした。

その後、計画はすこしながびきましたが
1年プー太郎やりました。
退職金は5百万ほどあったので。
朝、ゴルフ🏌うちぱなしにいき。
夏は午後からプールにいき。
夜は居酒屋へ。
そんな日々を1年すごす。
居候していた、オペレーション時代の先輩愛想つかれ。
いまでは、縁が切れてます。

そこから今の嫁のところで転がり込み。
お金をもってるヒモでしたね。

そして、1年間休んだ理由として
何かやりたい事みつかるかなとおもってましたが見つかりめせんでした。

最近見たドラマの『俺の話は長い』ではないですが外に出ないと視野がひろがないですよね。でも結果的飲みに行くことは今よかったとおもいます。

そして、やはり子供の時の夢を先生をなるべく、自分の母校の講師をめざしましたが、タイミングもあわず。

何やっていいかわかりません。
嫁も会社が嫌になりやめていめした。

嫁が大東建託のウェブセミナー参加してたのでみてたら面白そうだなと、
営業に挫折してたので、リベンジ。

2社目の入社です。
大東建託はいい会社。
頑張れない人は難しい。
大東建託は結果的に3か月しかいませんでしたが、
内容の濃い3か月でした。
たった3か月しかいなかったんだとおもうぐらい。
大東建託の何がすごいか。
まず経歴関係なしやる気のみ評価。
成果がですとも最低給与は払う。
教育がとてもすごい。3か月でノウハウは身につく。
この会社、総務もすべて全力で働いています。
支店がノルマ達成するとご褒美がある。
とにかくご褒美がすごいのと、
さらっと横に年収4桁がいる会社。
名言「私はずっとバブルだ」。
納得だ、みんな成果を上げるのに実直な人ばかり、
成果の上がらないことは徹底的にやらない。
一番驚いたのは、500人近くあつまる営業会議。
沖縄が表彰の為、パーティが開かれる予定だったが、
台風の影響で早く帰らないいけなった。
1日営業会議の予定だったが、15分の予定を2分でかいつまみ
1日の営業会議が1時間でおわった。
目的は沖縄の表彰だったので、さらっと胆略化できるのがすごい。
普通の会社ならだらだら1日かけてやるところそんなことはしない。
さぼってる人見たことない。
がんばったら給料がばっちりあがるので、頑張ってる人はすごい。
ノウハウさえみにつければ一億円営業はざら。
ただただ、成果には厳しい、評価には厳しい会社。

わたしは、いろんなトラブルが重なりぼかーーんとなりました。
二度と同じことはできないが、あんなエネルギッシュにすごいしたのは、
あの時だけかもしれない。1社目よりやなイメージはなく退社。

退社の理由は人生はどうなるかわかりません。
不幸が不幸で重なることがあります。
人生で一番ふさぎこみました。

親父がなくなり、仕事では1か月1件の検査ノルマを新規で3件取得。
しかし、残念ながらすべて実らず。4桁プレイヤーからも目をかけられるも。
やめたらだめだよっていわれたけど、そのあと業務中に言いがかりのような事故で、
警察から会社が保証してくれるからと私のせいになり、
くるまないと営業できないじゃんでぼかーん。
出社拒否にはじめてなりました。
普通ではない、無理して仕事していたから余計に落ちたのかもしれません。
それから4か月か5か月引きこもりました。

そして3社目
夢実現。再度専門学校の講師に。3月入社でいきなり1年の担任。
未経験の為、やる気だけで全力に取り組みました。
しかし、結果的に教職というのは合う人合わない人がいることに気づく。
私には向いていないことがわかる。
とにかく問題が多かった。生徒からも評判がわるかった。
アンケートは最悪だった。原因は全部自分にあった。
自分がおもい描いていた教職とは全く違った。
正直言えないことがたくさんありました。

ただただ、生徒と楽しく会話していた時間はよい時間でした。
あまり、職員室にいるのが好きじゃない私でした。

でも1年とはいえ夢をかなえ、
満足とは言えないものも長年抱えていたものがふーーと消えていきました。

そして、何をしようかとやっぱりエンジニアかなと
これだけ転職を繰り返し、数年も現場からはなれていたけど、
助けてくれたのは、がんばった時代の資格でした。
当然資格は、講師になる際も強い味方となりました。

努力をしていてよかったと思いました。
今は、リーダというよりは一匹オオカミでモクモクと実装をしていますが、
イヤー向いているなーと、リーダも正直無理してやっていましたし、
上を目指す=マネージメントとおもってました。
当然マネージメントも勉強しましたよ。
情報処理試験のマネージャ試験も論文B判定でしたした。
それなりにマネージメントの勉強もしてるので、
マネージャやリーダの気持ちがわかるエンジニアとして
気が楽に実装に打ち込む日々ですね。
最近は、いろんな技術や知識や経験が点が線となり面で仕事できてますね。
結局は、この仕事が一番自分にあってます。
好きなことやって仕事になるだから最高!

いやーたのしいプログラムや設計!
リーダーマネージメントやってても経営者にならない限り60歳で終わり。
技術とコミュニケーションと腰の低ささえ見つけたら
60歳からも光れる仕事だとおもっています。

最新技術を身にまとう目指せ75歳現役エンジニア!

でも仕事も多く給料がいいといって、努力もできないのにエンジニアになるのはやめた方がいいです。
向上心、探求心がある人もしくは、コミュニュケーションにたけていたり、段取りが得意なひとは向いている仕事かと。

転職nendo×はてなブログ 特別お題キャンペーン #しごとの思い出

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by 株式会社Jizai「転職nendo」