今回、コロナの影響もあり、
学校のオンライン授業が普及した。
今まであった技術だか、突然社会に一般化した。
私達の時代では教師が授業をするというのは、
当たり前だった。
当たり前というかその選択肢しかなかった。
最近ふと考える、
教師って全員授業する必要あるのかな?
授業のほとんどは、優秀で上手な授業を文科省がレベルワケして動画で用意し、授業ではそれとテキストですすめる。
教師は、フォロー役でいいのではないかな。
もう一度見たい人はネットでみれる。
テストも全国統一で受けてたりないところは、
標準的なテストを実施してま違った問題にあわせて動画再補講授業や補講授業をみせる。
講師をやった事があるが、
朝は、出席をとり、
1人1人の顔色を確認。(する人しな人は多い)
出席の後は、短い時間で生徒相談。
次が授業なら授業だし、
空きなら授業の準備、教材の準備しながら
解かせる問題の理解を深める。
お昼をとり、お昼休みにも生徒相談。
全国の教師や講師がこの類の事を繰り返している。
勉強する子は勉強するし
しない子はどう工夫してもしない。
それぞれの全国の教師のエネルギーを
別のベクトルへ向かわせてもいいように思う。
乱暴な話教師は、優秀な動画に置き換わると思う。
コンテンツは一種類じゃだめだろう。
しかし、段階的な義務教育では、
足し算や引き算がまともに出来ない子が高校を卒業する。それも1人や2人という次元では無い。そもそも留年レベルなのに留年しない。
だって可愛そうだから、足し算引き算できなくて高校いくほうがよっぽど可愛そうだと思う。
取り残された人は一生取り残される。
教師や講師はわかっていても、その取り残された子に時間をさけないのだ。
だからこそ、授業のコンテンツは全体で作成し、
コンテンツの不明点に対して教師が対応する。
心の教育は、教育が担わず、
そこも動画コンテンツを用意する。
出席などは、電子化して、
ずるするやつはしてもいい。
ズルするやつはどこかで人生の回収が必要になってくる。会社サボったり、仕事サボったりと。
そこで指導をしようとサボるやつはサボる。
きちんと出欠とったとて、
授業に集中できず、寝ているなら、
そのしっかりとした出欠も意味をなさない。
一旦やること整理。
授業は、動画視聴と専用テキストで実施。
確認テストを実施、教科満了。
定期テスト実施。
問題は同じでもいい。
しかし、ポイントを覚えれる問題。
定期テストの分析で、各生徒毎に補講コンテンツ配信。
カリキュラムが50の項目があるなら、
動画は500程用意する。
レベル訳は様々、
大学レベル、高校レベル、中学レベル、
小学校レベル、幼児レベルまでわける。
テストの結果だけで成績とせず、
受講数や、受講レベルなどで相対的に、
意欲や、到達度を判断。
受講数を増やそうとしても、
確認テストで不合格なら次にいけない。
学校でのコミュニケーションが
結果社会につながるか?考える。
本当に小学校、中学校でコミュニケーションはつみあがるのか?
結果友達とあい遊ぶ事によってコミュニケーション力はうまれのではないだろうか?
その要因の多くは家庭にあると思う。
学校が学校としてあり続ける事は
必要なんだろうか。
当たり前といっても
歴史は案外70年ほどしかない。
70年もたてば当たり前も間違いかもしれない。
結果教育の本質は、
自ら学びたいとおもうこと。
松蔭塾のスタンスでなければならないと常々思う。
こうなりたいといっても
学校では何も教えてくれない。
先生になりたいといった子に、
先生のなり方はどの先生も教えてくれなかった。
一人かな英語教師だけ。
先生を否定するわけではないです。
もっと効果的な教育は、他にあるじゃないだろうか。インターネットが普及した今。